窓際族より胸いっぱいの愛を

(You Can't Always Get) What You Want ?

綿矢りさ

ひと昔前、「綿矢りさ」にハマっていた事があって。
勿論、かわいいからというのもあるが(笑)、その文章の個性に注目していたのである。


決してそんなウマい文章ではないのだが、印象に残る文章なのである。



文章にしても歌にしても絵にしても、芸術ってモノは、結局「ウマさ」よりも「印象に残るか」というのが勝敗の分かれ目だと思います。

綿矢りさは「綿矢りさ」というブランドをきちんと確立している。
それが、スゴい。




で、下記に掲載する文章は、実は最近書いたモノではなくって、かれこれ2年前くらいになるかな、別のサイトのブログで書いたモノなのです。


そのサイト内でも比較的反響があったモノなので、はてなにも載せてしまおうと。

そういう、云わば「手抜き」ですね(笑)


なが――い文章なので「綿矢りさ」に興味ない人、「綿矢りさ」についてまったく知らん人は読まないほうがいいと思います。

時間のムダです(笑)



この文章書いた数年後、綿矢りさは結婚しました。

そんで、僕も今となっては当時ほど綿矢りさへの熱は冷めてしまっています。

別に結婚したから、とかそういうんではなくって、単純に作品が凡庸になってきたから?(笑)




前置きが長くなりましたが、以下、2年前の文章を他サイトのブログ(勿論自分のモノ)からそのままコピペ。



..........

「選ばれし者」....綿矢りさの処女作「インストール」の文庫本を購入し、解説に目をやると、そんな題名が付いていた。

高橋源一郎という名の小説家(知らない)によるそれは、まさに絶賛の嵐であった。



「選ばれし者」。



手放しで賛同はしないけれども、確かに「綿矢りさ」はある世代の「石原慎〇郎」「村上龍」「吉本ばなな」の様な存在とある意味でかぶる所がある。

もっと付け加えるなら、「村上春樹」「山田詠美」「筒井康隆」「町田康」「辻人成」....

歴史を遡るなら、「太宰治」や「芥川龍之介」などもそれらの仲間であろう。


とどの詰まりが、文章だけではなく、その作家のキャラクター性も話題となり、その作品もまた、作家本人が「自分の事を書いた訳ではない」と云ったとしても、何だかその作家の探究材料に使われてしまう、という。それだけタレント性があるし、作品自体がたとえ駄作だったとしても、ファンは、その作家の書いたもんなら取り敢えず読もう! という、そういう気持ちにさせられてしまう様な作家である。


これは音楽なんかも似たような所があって(というか芸術なら全ての分野に当てはまる事なのだが)、たとえむちゃくちゃイイ曲だったとしても、それを歌ったり演奏したりしているミュージシャン自身に魅力が乏しいと不思議な事にさして話題にならない。

いわゆるネームバリューというモノだけど、そういう傾向を「駄目」とする向きもあると思う。

いくらピカソが描いたといっても、どう観たってそこらへんの幼稚園児が描いた絵にしか観えない....という時、そういうのにどう評価を下して良いかよくわからない。(実際、そういう絵は存在する)

しかし、少なくとも僕はピカソが大好きだから、そういう作品にも興味がいってしまう。
これはもう「ピカソという人間自体の魅力」がそうさせるに他ならない。



綿矢りさはそういった一種の「カリスマ性」がある故に「選ばれし者」なのであろう。(まぁ、「インストール」の解説での意味合いは、美しく魅力的な日本文学及び日本語の文章の分水嶺的な存在に成りそうだから...みたいな感じの様だが)

おそらく綿矢りさより文章の上手い作家、綿矢りさよりも面白い作品を書く作家はゴマンと居よう。

しかし、時代は前述の意味に置いて綿矢りさを選んだのである。我々現在の20代にとっての「村上龍」に成り得ているか、太鼓判は押せないが限りなくそれに近い作家だと思う。

大体、昔はもっと作者も有名、みたいな小説家が沢山居た筈なんだけど、最近では作品は知っているが作者がどんな奴かはわからない、というのが多い(気がする)

それは音楽界でも矢張同じ事が云える。
曲は知っているが、演奏者の素性は知らない。

残酷に、非情に残酷にバッサリ切ってしまうなら、いわゆる「無個性」なのだ。

前述の様に「いい小説だったら、いい曲だったら、いい絵だったら、作者が誰であろうが関係ない。作品単体で評価すべきであって、作品と作者のつながりは重視しなくてもよい」という様な考え方もある。

これも一理ある。が、僕はそれに賛成しない。

僕は芸術作品は作者の顔が見えてなんぼ、といった風に思っている。作品に触れた時、思わず「作者はどんな人なんだろう」、と探究したくなる様なモノの方が優れた作品だと思う。



話が脱線気味になってきたので戻そう。

詰まり、綿矢りさはそれだけ濃厚な臭いを放つ小説家なのである。勿論、容姿の問題もあるだろうが、それだけでは生き残れない事は長い歴史が証明している。

― 2004年。綿矢りさは最年少19歳で芥川賞を受賞する。作品は「蹴りたい背中」である。

皆さんこの作品を読まれただろうか? 結果論から云うと、別にそんな大層な小説ではない。高校生のあるひとときを描写したに過ぎない規模の小さな小説である。

しかし、兎に角「綿矢りさ」なのである。(なんじゃそりゃ)

前作の「インストール」とこれの2作品だけで、綿矢りさはもう綿矢りさワールドを確立させた。

その後の作品も全部読んだ訳じゃないので、詰めが甘い考察になっちゃうだろうな~と思いつつ、綿矢りさとは何なのか!? ― を僕なりに考えてみた。


その大前提として、綿矢りさはインタビュー等で核心的な部分を突かれそうになった時、「小説の主人公と私は違いますー」みたいな事を云いつつ、すいーっと
うまくかわして居るのだが、僕は正直、この人は基本的に無器用で無自覚的な人だから、そんなうまいこと自分と全然違う人間を描写出来る様な人ではない、と思って居るので、殆ど自分の事を書いちゃってるんだろうと、まぁそう思う訳です。(勿論、お話自体はフィクションでしょうがね)



と、いう訳で、綿矢りさは ―

①エロい。

― これはもうホントにそう。(笑) 2004年の芥川賞受賞は最年少女子ダブル受賞! というのも話題のひとつであり、もうひとりの金原ひとみの「蛇にピアス」という作品も話題になった。(吉高由里子主演で映画化もされた)
この「蛇にピアス」という作品、内容的にはエロい方だと思う。(ちょいエロくらいかな)

少なくとも「蹴りたい背中」よりはエロい。
....筈なのだが、「蹴りたい背中」の中で描かれるエロ描写の方が数段エロいのだ。

直接的な「蛇にピアス」に対して、「蹴りたい背中」のそれはダイレクトでは無いぶん、精神的なエロさがある。
(以下ネタバレあり)
例えば、にな川が、大好きなアイドルのオリちゃんの顔の部分だけ雑誌から切り取って、それを裸の幼女の写真の顔部分に貼り付けている、という作品を作り上げている、等といったもの。

詰まり、自分が調達出来るだけの素材で大好きな女性のヌード写真を作り上げた、というなんとも精神的にエロいエピソードである。

次はにな川が風邪をひき、主人公の女の子が見舞いに家へ訪ねるシーン。

主人公は部屋に招かれて桃を出されるのだが、にな川の唇が乾燥の為に切れており、食べにくそうに桃を食べている。傷にしみるんだね。
そこで主人公の取った行動。「やった。すごい、なめたい!」(すいません、確かこんな台詞だった筈。手元にテキストのない状態で書いてますんで 謝)

と云ってにな川の唇の傷を舌でペロッとなめる。
これもなんか昔の純文学映画みたいなエロ描写だ。(鈴木清順みたいだなと思ったよ)

女子更衣室のシーンではプールの授業の為、脱衣をするのだが、タオルの中の自分の身体を見て、自分でエロいと思う、なんていう場面もある。

ここまでくると最早、「変態」である。(確信)

蹴りたい背中」ではまだ表現が押さえられているが、「ひらいて」などになってくるともう言い訳や誤魔化しが通用しない。しかも、あるインタビューでは、「ホントはこういう作品を2作目で書きたかったんですけど、技術がなかった」と語っている綿矢りさ

技術は確かに上がっているが(何の?(笑) 正直、構想はあってもあの時点では書けなかったというのが実は本音ではなかろうか。

「ひらいて」では好きな男を嫉妬させる為に、その好きな男が惚れている女と同性愛行為におよんでしまうという暴走具合。完全に体裁を守る事を棄てたらしい。「私は変態です」と云わんばかりだ。

でも、けなしている訳ではないのであしからず。

綿矢りさは美人である。美人な女性は十中八九頭がイイ。そして、頭がイイ人ほどエロいのだ。
綿矢りさ自身も「インストール」の中で云って居る様に、エロの世界は果てしない。知性が上がれば上がる程様々な性の快感に目覚め、しまいには世の中すべてのモノがエロく観える様になってしまう。(大袈裟かも知れないけど、ホントにそうよ)
おそらく日本においては未だに「エロ=下品・下ネタ」みたいな発想が一般的な気がするが、エロは人間に付随する要素の中で切っても切り離すことの出来ない絶対条件みたいなモノであり、蔑むモノでも馬鹿にする対象でもないのだ。

...処女作には作家のすべてが詰まっているとはよく聞く話だが、綿矢りさの処女作「インストール」は、登校拒否をした女子が、ませた小学生の餓鬼と一緒に押し入れの中でエロチャットする、という話。

まだまだ未完成な感じだが、その後の綿矢作品を見てもおおよその要素は揃っている。


●日常の中の非日常的シチュエーション。
●変態の女子。(主人公)
●色々背負っている風な影のある男。(わかっている男)
●その逆にわかっていない凡人ども。(正確には常識を逸脱せずにまっとうに、というか堅気に生きている市井の人々)

●疎外感

....昔、綿矢りさはよく云っていた。「書きたいものがよくわからない」。「恋愛を描いていますけど、ひょっとすると描きたいものが恋愛では無いのかも知れません」。

うーん、成程。
しかし、客観的に観させてもらって、あなたが一番描きたいモノは「エロス」だと思います(笑)
冗談抜きで。それも「アガペー」じゃなくて「エロス」限定ね。でも、エロ目的の官能小説は駄目。なぜなら、日常の中にわざわざ非日常的空間を作り上げて、その中で乳くりあったほうがよりエロいという事を勘づいて居るから。あくまで「日常的」というのがポイント。で、どうやら綿矢りさにとってそのシチュエーションを作りやすいのが「高校生活」らしい。
よっぽど高校生時代が印象的だったのだろうか、その場を与えられると綿矢りさは水を得た魚になる。

「夢を与える」や「勝手にふるえてろ」等では少し違うシチュエーションでやろうと試みた様だが、どうにも不発だった。

本人が余り把握していない社会を書こうとしても書き方が荒くなって嘘くさくなってしまう。

かといって、いつまでも高校生を書いて居るのも作者の年齢からしてもどうかと思うが(余計なお世話)これからどうするつもりなのだろう。



②理想の男を追い求めている。

― 綿矢作品に登場する男キャラクター、特に、主人公が惚れているキャラクターは、それぞれ、性格や行動原理は違っても、なにかしら共通項がある。

僕もすべての作品を読んでは居ないので詰めが甘いのはしょうちのすけだが(笑)、顕著なのは「蹴りたい背中」のにな川、「勝手にふるえてろ」のイチ、「ひらいて」のたとえ、などである。

引きこもり気味。窓際族。しかし、実は頑固でこだわりがあり、強引なまでに積極的な部分も合わせもって居る、という。

例外として、「夢を与える」に登場する「正晃」が居る。
この男は他の綿矢作品に登場する男と違って、上記の様な定番の主人公が追っかける対象にするネクラな男でもなく、「勝手にふるえてろ」のニの様な「世の中にはこういう男も居ますが、これは私のタイプではありません」という噛ませ犬みたいな男でもない。

云わば、典型的なチャラ男である。

しかし、もう少し深く観るなら、「周りに媚びていない」という特徴が、正晃の肝となっている気がする。

これまたあるインタビューにおいて、綿矢りさは「恋愛をするなら、マジメで清潔な感じのタイプ。結婚するなら、仕事をガツガツする出世しそうなタイプがイイと思う様になった。」と云って居る。前は逆だったそうだ。確か「勝手にふるえてろ」を出した辺りのインタビューだったと記憶して居る。

正晃はチャラくてヤル気もないから出世しないだろうが、主人公の追っかける対象に選ばれたという事は、こういうタイプも何かしら綿矢りさの心をくすぐる所があるのだろう。

何度も云うが、全作品観てないので、他にも例外のタイプが居るのかも知れないが....。

― と、いう訳で、これらの要素を強引にまとめるならば、綿矢りさのタイプとなる男性像は....


●達観して居る。

●他人とのコミュニケーションが苦手である。しかしその理由は、口下手だとか、内気だからとかではなく、人間を観過ぎるので、ある種の「対人恐怖症」的なものに陥って居たり、人間を卑下して居る部分があるからであって、根本的に無器用だからではない。
寧ろ、洞察力が高いので、一対一でジックリ話してみると実に深くて魅力的。

●草食系と思いきや、いったんスイッチが入ったらガンガン主張を始めたりするドS。
(クリーミー男子とは違う。ロールキャベツ男子? (笑)

●基本、醒めているが、自分には適度に優しい。

.......と、まぁこんな具合かな?

で、書いてて思ったのが、こういう男って確かに居ると思うけど、まぁ、滅多に居ないわな(居るかな?)

アニメの世界とかには割に居そうだけども。

でも、こういう男を好む女性って今の日本には結構居そうだ。

近年、女性の肉食化が著しい。それに凹凸関係ではまるのが、上記の様な男なのかも知れない。



③芸術至上主義である。

― 詰まりは、芸術の為の芸術をやって居る。(今は少し変わったのかも知れないが、依然としてその傾向はある)

何かを描きたい、何かを訴えたい訳では特にないのである。「美しい文章が書きたい」「ハッ、とするような場面を描写したい」「完璧な文章、完璧な展開を求める」等。

綿矢りさは「芥川賞」を獲得している。
一般の人は「芥川賞」の事をどういう賞だと思って居るのだろう?

形骸化された回答としては、「将来が期待される新人作家に送られる賞」「新人作家の登竜門」「短編及び中編の小説が対象」等々。
その通りなのであろう。

しかし、僕はこう思って居る。「芥川龍之介みたいな文章を書く人がとる賞」(笑) という。
だって、「芥川賞」なんだから。名前が。

一口に「芥川龍之介」と云っても人によってイメージはバラバラである。何せ、芥川はその短い作家人生の中において、幾度となく作風を変えている。

初期は、お馴染み「羅生門」「鼻」「芋粥」など、日本や世界の古典からネタを調達し、それを芥川風に改造。より、モダンな感じに焼き直した様な手堅い作品を連発した。誤解を恐れずに云えば、パクりの天才である。
中期以降も内容にオリジナリティが増したものの、矢張元ネタが存在するものが殆どである。
「藪の中」「地獄変」「杜子春」「蜘蛛の糸」「六の宮の姫君」等。

それが、晩年、一転して作風が大きく変わる。
簡単に云うと「私小説」が格段に増える。
「保吉」などという偽名を使いながら「私小説」を展開。それと同時に、「筋の無い小説」の探究に入る。

「大導寺信輔の半生」「蜃気楼」「河童」「ある阿呆の一生」と来て、最後に到達したのが「歯車」である。

僕は芥川のファンであるが、この「歯車」が一番好きだ。僕の中で「芥川龍之介」というと「歯車」になる。晩年まで私小説や筋なし小説を否定してきた芥川が一転、それを突き詰めて死ぬ間際に到達した美しい世界である。筋の無い、しかし、何かしら意味を読み取る事も出来そうな、そして文章の美しさと云ったら天下一品である。

限りなく透明に近いブルー」も新しい「歯車」だった。「蹴りたい背中」もそういった傾向は確実にある。シュールで倒錯した日常風景。それが芥川賞に相応しい。

しかしながら、それは完璧なスタートであると共に、そこに留まる事を許さない。作家は伝えたい事を見つけていかなければならない。大地に根をはって強さを手に入れる必要がある。

現在、綿矢りさはスランプを乗り越え、吹っ切れて、そしてボンボンやらかして居る。実に頼もしい。

天才じゃなくなってもイイ。「歯車」の世界に居ると昇天してしまうからね(笑)
好きな様にやらかせばイイ訳です。



長くなったなぁ、しかし(笑)



....最後にもうひとつ。
これは「インストール」で既に顕著であるが、綿矢りさはいわゆる「腐女子」なのだ。

それも忘れてはならない要素であろう。

これからも面白そうな小説出したら中古で買って読むよ、綿矢さん。(けなしてる訳じゃなくて、僕にお金が無い、というだけです)

頑張れ、変態!(称賛の言葉よ)