窓際族より胸いっぱいの愛を

(You Can't Always Get) What You Want ?

ひとカラでBz

散歩行って来ました。

タワレコをぶらぶら。
視聴機を片っ端から聴きまくりツアー。


「どれもピンとこない.....」

毎度の事である。

僕が不感症なだけなのか、世の中の音楽がダメなのか。
多分、前者なんだろうが。



いつからこうなってしまったのだろう。

唯一、ピン!ときたのが、ビ―トルズのベスト版の「1」。

やっぱり彼らの音楽はなんか違う。

ビ―トルズも死ぬほど聴いてきたので、流石に何も感じないかな、と思ったが、見事にノリノリになってしまった(笑)

古びてないんだ、これが。

なんでなんだろうなぁ。すごい。


で、何だか煮え切らないので「ひとカラ」をする事に。

と、いっても僕は歌がウマい訳では決してありません。
ただの気晴らしです。

これも鬱屈した感情を吹き飛ばす為の一つの方法論です。


僕はバンド活動もまぁ、しているのですけど、僕の歌は使いモノにはなりませぬ(笑)


音痴とかではないし、案外高いキ―まで出たりもするのだが、なんというか「声が歌向きではない」というか(笑)

滑舌が良すぎるんですよね、まず。


「いいじゃない、それ―」って思うかも知れませんが、アンマリ滑舌良すぎるのも弊害なんですよ。


よく、ネットの歌関係の質問とかで、「滑舌が悪くて困っています。どうやったら滑舌良くなりますか?」

なんてのを見かけますが、「滑舌よくなんなくていいから!」って僕なら云う(笑)



専門用語で云うと、音(声)には大きく分けて、「整数次倍音」と「非整数次倍音」てのがありまして、前者は、ハッキリしっかり聴こえる強くて張りのある声。

政治家の演説してる時の声や、ス―パーで「いらっしゃいませ―」って叫んでる売り子の声みたいなの。

人を引き付けるカリスマ性のある声。

ジャンルで云うと、クラシックのオペラ歌手の声。

滑舌も当然イイでしょうよ。

んで、僕は間違いなくこっち側の声質。


「ますますいいじゃ―ん」、とか思うでしょ?

仮に、歌が上手ければそれでも問題ないどころか強みにもなり得るかも知れない。

でもね、歌が下手だったら、声がむやみにハッキリとキンキン聴こえるだけのダミ声ですよ。

それに歌ってあんまりハッキリ聴こえ過ぎると、歌っぽくなくなっちゃうんですよ。しゃべりみたくなっちゃうの(笑)



で、逆に「非整数次倍音」とは、ウィスパ―ボイスとかハスキーボイスとか、アニメ声とか、なんかハッキリ聴こえ過ぎない声というか。

耳に心地よい声なんですねぇ。

ずっと聴ける声と云いますか。

滑舌が悪い人はだいたいこっちに所属する事になるんじゃないでしょうかね。


クラシックとか、別の国に行けば、整数次倍音の声のがイイという国もあるでしょうが、日本のポップスにおいては、おそらく非整数次倍音の声のほうが受け入れられやすいでしょう、と思うんですがね。


例をあげると、GLAYのボ―カリスト、TERUなんて、非整数次倍音の代表格じゃないでしょうかね。

彼の声は耳に心地イイでしょう?

何云ってるかはよく聞き取れないけれども(笑)

だから、滑舌悪い人は自信をもってね!

あなたは歌に向いている。



実はね、声質だけでその人の資質まで分かってしまうという事があって。

「整数次倍音」の声の人は、物事をかなり客観的に観察するタイプ。物事にそんなにのめりこまない、距離を置く系統の人。

逆に、「非整数次倍音」の声の人は、温かみがあって、物事にすっかり感情移入しちゃうタイプ。
熱中すると周りが見えなくなっちゃう系統ですね。


まぁ、一概には云えないのだけれども(笑)



....なんの話だ。(笑)
ひどく脱線したぞ。



「ひとカラ」に行ったんだった。

今から7~8年前はよくLUNA SEAを歌ってたんですよ。
河村隆一に声質やキャラが近いかな―と思ってて、実際歌い安かったので。


それから、ある時からミスチルを歌い出して。

でも、最近はめっきり歌自体歌う機会がなくなってしまって、全然声が出なくなってしまったという(泣)


もう思いっきり喉歌いのキンキン声しか出せなくなっちゃった。
もともと腹式呼吸なんていう高度な技など会得しては居ないのだけどね(笑)


しかし、今夜はなんせ「鬱をぶっとばせ!」という自分内企画なので。

こうなりゃ、絶対に歌えない様なア―ティストの曲を入れて声を出しまくる!、と決めた。


そして、Bzを入れまくる。

案の定、高い!


.....が、案外、声、出た(笑)

勿論、サビの高い所とかはきれいにはメロディをたどる事は出来ないのだが。

だいたい、Bzとか歌った事もないのでメロディもよく分からない(笑)

適当に歌い続けて声がガラガラになって終了~。


でもBzというか、稲葉も整数次倍音の声だと思うし、僕とそこまでかけ離れた声ではなかった.....


思わぬ発見だ。


今夜は疲れたのでもう寝よう。明日は朝から仕事だ。






ちなみに、話がめちゃめちゃ変わるが、最近Youtubeで、「とみさん」という歌い手さんを発見しました。

様々なア―ティストの歌にカラオケで挑戦して居られて、それが超絶にウマい!!

はじめて聴いた時はめんたまが飛び出る程ビビりました。是非とも検索して聴いてみて下さい。

「とみさん」です。


稲葉浩志」に「桜井和寿」に「ASKA」に「桑田佳祐」に...全員そっくり!

同じ人間から全員の声が出ているという事実にビビる(笑)


そういう観点で聴くと、確かに全員違うんだけど、共通する所もあるんだなぁ、と思った。

スゴい発見。



日本語って、言語としてリズムにノリにくいんですよね。
どうしてもペッタリしちゃってグル―ヴが出ない。

だから、それぞれに工夫して、何と表現していいのかわかんないですが、ねばっこい歌い方をしている。

歌は音符と音符の間のつなげかたで個性を出すモノですからね。
音符と音符の間に無限の宇宙がある!(笑)


それぞれのそのつなげる癖を「とみさん」は見事にとらえてる。


天晴れです!

自宅なう

相変わらず「肉を喰う」生活を続けて居ります。


最近いろんな意味で滅入ってしまっているから、その打開策として、安易だが、「肉を喰う」。


お金がキビシくなってもかまうものか。

鬱になって死んでしまったら、お金もなにもなくなってしまうのだから。


だったら思った様にやろう!そうだそうだ!



最近、そんな風に開き直りはじめた。


サラダも食べる。卵もバナナも食べまくる。

それでバランスが保てるならやったろうやないかい!



これからは遠慮せずにズンズン生きてやるんだっ。
(と云いながらも遠慮するんだろうけど)


昔、ミスチルも歌っていたでしょう?

「誰かのために生きてみても、Oh Oh 明日は見えず~」とかって。
(よく覚えてないけど(笑))


自分自身が元気な事!イコ―ル、周りも元気になる!


それはわかってんだけどね、なかなか難しいね。


この世は自分の心の中を投影しているプラネタリウムみたいなもんだからね。


自分の心が太陽みたく明るければ世界も輝きに満ち、心が暗ければ暗黒の雲に覆われる。



いつでも太陽のようで居たいものです。


今日は休日だよ―。

目玉焼きにコ―ヒ―を飲んで。

午後の予定がキャンセルになったの。

なんだか天気も雲行きがあやしいけど、さっきベランダに出てみたらすっごく空気がおいしかった。


だから、出かけたくなってきましたよ。


なんて書いてるうちに雨音が聞こえてきましたが、どうしよっかな(笑)


うん、でも外へ行こう。

外の世界へ。

終わりなきエヴァンゲリオン

エヴァンゲリオン」。

ヱヴァンゲリヲン」?


まぁ、どうでもいいのだが(笑)



エヴァはもはやブラックホ―ルの様な化け物である。


漫画、小説、関連本、アニメ、映画、CM、玩具、ゲ―ム、CD、演劇、パチンコ、コスプレ、お笑いのネタ、ネット民の餌....

兎に角、メディアミックスの化け物である。



今の時代、エヴァでなくとも、この激しいブランド戦争に勝ち残った強者(つわもの)は、なんでもかんでも飲み込んで巨大化するだけ巨大化するのは珍しくもなんともないのであるが。



エヴァはそのハシリとも云えそうだ。



とんでもないブラックホ―ルである。


そんなエヴァもQを観る限り、そろそろ飽食気味で食あたりを起こしている様な所がある。


食べ過ぎだ。


そもそも、20年前、1995年の時点で庵野秀明エヴァンゲリオンという作品をどういう風に転がそうとしていたのかはよく分からない。

彼は結果論、天才であったから、もしか今のようなブラックホ―ル状態を見越していた部分もあったのかも知れない。

そうだとすれば相当スゴいとしか云いようがないが。



庵野さんはエヴァに全身全霊を賭けていたようで、アスカラングレ―さんが来日するあたりで既に制作費が尽きていたという話だ。


確かにエヴァの10話くらいまでの作画のクオリティ―といったら本当にヤバイ。

それがたたって、使える紙もなくなってきたという理由もあって、例の後半の殆ど動かない絵、過去のシ―ンの使い回しを心理描写を表す的な感じで転用するなど、苦肉の策なのか新しさを狙ったのか、どうしようもなかったのか確信犯だったのか、よくわからん演出になってゆく。


まぁ、エヴァの新しかった所って、アニメを実写映画っぽい感じで解釈したような手法を多様した所にある、と思っていて。
殆ど絵が動かないで長セリフが続くとかは、そういう効果に一役買ってると思ってるので全然イイんだけど。




兎に角、それらの演出は、「吉」と出た。


特に事あるごとに引っ張り出される最終2話の、ある意味革命的な演出やシナリオ進行は伝説と化している。

ただし、次回予告の時点では劇場版のラフスケッチも出てくるあたり、庵野さん的には不本意だったのかも知れない。


しかし、エヴァがきちんと完結せずに、多くの謎をすべて投げっぱなしにして終了した事で、結果的にエヴァは社会現象に発展する道をたどる事になる。



そう。エヴァンゲリオンとは、視聴者が能動的に意味を付加していく、という楽しみ方が出来る「参加型アニメ」と化したのだった。


それは、史実がよくわかっていない大河ドラマを自分なりの見解をもちながら鑑賞したり、もしくは作者本人による録音の残っていないクラシックを自分なりの解釈で演奏したりするのとも似ている。



未完成だからこそ、真相が分からないからこそ、無限に増殖が可能なのである。


庵野さんは最初からそれに気付いていたかは定かではないが、「彼氏彼女の事情」あたりを観ると、もう意図的にそういう方法論を乱用しているふしがある。


ガッチガチに設定をつくるのではなく、取り合えずオモシロそうな「ネタ」をぽいっと提供し、しばらく転がり具合を観察する。


そのネタというのは、庵野さんの場合はお得意の過去のアニメや映画からの「オマ―ジュ」戦法である。


それでまず視聴者が食いつきそうな餌をばらまく。

その食いつき具合を見て、次の餌をばらまく。

その繰り返し。


しっかりした物語を創るつもりなど最初から、ない。


内輪ネタで楽しむ感じだ。

わからんヤツは着いてこなくていい、という姿勢だ。

芸術至上主義的であり、インテリジェンスである。


これは、映画ならゴダ―ル。
小説なら芥川龍之介みたいな風でもある。


老若男女にはウケないかも知れないが、マニアにとっては神様のように思えるかも知れない(笑)

老若男女にウケるのは、スピルバーグ志賀直哉なのだろうが、僕にとっては野暮ったくて退屈だ(笑)



しかし、なかなか手堅そうなこの方法論も、キムタクが主演した「安堂ロイド」のように、やっぱり一般層向けではコケたりもする。


そういう意味で「シン·ゴジラ」も少し(とても)不安だ。


庵野さんの映画が成功しないのは、結局彼の創るモノがマニアの域を出ないから、なのかも知れない。

スノッブな連中のクイモノにされているという。



エヴァはその中でも一般層の人気を勝ち得るに至った作品である。


しかし、それも、「ヤマト」「ガンダム」「ウルトラマン」「ゴジラ」「デビルマン」「マクロス」「ナウシカ」「ガイナックス」「SF映画」「純文学映画」など過去の作品群を見事にひとまとめにして、イイトコ取りを行い、アップグレードさせるのに成功したからだろう。

それも「アニメーション」というフィ―ルドで。



そんなエヴァも来年には一応劇場版の完結編となる「シン·エヴァンゲリオン :|| 」なる作品が公開されるらしい。


ホントにこれで終わるんだろうか(笑)

もうけっこうどうでもよくなってきた感じもある.....

などと云いながらも、多分映画館には行ってしまうだろう。悔しいが気になるもの(笑)



だって、今のクリエイタ―で本当の意味で期待出来る人って(映像畑だったら)庵野さんくらいしかいないんだもん。



みんな新しい事やってる風で、全然こじんまりとしちゃってて詰まんないんだもの(笑)


もっとはちゃめちゃやればいいのに。
(それを許してくれない現状のアニメ界のキビシイ事情があるのは承知しているが)

綿矢りさ

ひと昔前、「綿矢りさ」にハマっていた事があって。
勿論、かわいいからというのもあるが(笑)、その文章の個性に注目していたのである。


決してそんなウマい文章ではないのだが、印象に残る文章なのである。



文章にしても歌にしても絵にしても、芸術ってモノは、結局「ウマさ」よりも「印象に残るか」というのが勝敗の分かれ目だと思います。

綿矢りさは「綿矢りさ」というブランドをきちんと確立している。
それが、スゴい。




で、下記に掲載する文章は、実は最近書いたモノではなくって、かれこれ2年前くらいになるかな、別のサイトのブログで書いたモノなのです。


そのサイト内でも比較的反響があったモノなので、はてなにも載せてしまおうと。

そういう、云わば「手抜き」ですね(笑)


なが――い文章なので「綿矢りさ」に興味ない人、「綿矢りさ」についてまったく知らん人は読まないほうがいいと思います。

時間のムダです(笑)



この文章書いた数年後、綿矢りさは結婚しました。

そんで、僕も今となっては当時ほど綿矢りさへの熱は冷めてしまっています。

別に結婚したから、とかそういうんではなくって、単純に作品が凡庸になってきたから?(笑)




前置きが長くなりましたが、以下、2年前の文章を他サイトのブログ(勿論自分のモノ)からそのままコピペ。



..........

「選ばれし者」....綿矢りさの処女作「インストール」の文庫本を購入し、解説に目をやると、そんな題名が付いていた。

高橋源一郎という名の小説家(知らない)によるそれは、まさに絶賛の嵐であった。



「選ばれし者」。



手放しで賛同はしないけれども、確かに「綿矢りさ」はある世代の「石原慎〇郎」「村上龍」「吉本ばなな」の様な存在とある意味でかぶる所がある。

もっと付け加えるなら、「村上春樹」「山田詠美」「筒井康隆」「町田康」「辻人成」....

歴史を遡るなら、「太宰治」や「芥川龍之介」などもそれらの仲間であろう。


とどの詰まりが、文章だけではなく、その作家のキャラクター性も話題となり、その作品もまた、作家本人が「自分の事を書いた訳ではない」と云ったとしても、何だかその作家の探究材料に使われてしまう、という。それだけタレント性があるし、作品自体がたとえ駄作だったとしても、ファンは、その作家の書いたもんなら取り敢えず読もう! という、そういう気持ちにさせられてしまう様な作家である。


これは音楽なんかも似たような所があって(というか芸術なら全ての分野に当てはまる事なのだが)、たとえむちゃくちゃイイ曲だったとしても、それを歌ったり演奏したりしているミュージシャン自身に魅力が乏しいと不思議な事にさして話題にならない。

いわゆるネームバリューというモノだけど、そういう傾向を「駄目」とする向きもあると思う。

いくらピカソが描いたといっても、どう観たってそこらへんの幼稚園児が描いた絵にしか観えない....という時、そういうのにどう評価を下して良いかよくわからない。(実際、そういう絵は存在する)

しかし、少なくとも僕はピカソが大好きだから、そういう作品にも興味がいってしまう。
これはもう「ピカソという人間自体の魅力」がそうさせるに他ならない。



綿矢りさはそういった一種の「カリスマ性」がある故に「選ばれし者」なのであろう。(まぁ、「インストール」の解説での意味合いは、美しく魅力的な日本文学及び日本語の文章の分水嶺的な存在に成りそうだから...みたいな感じの様だが)

おそらく綿矢りさより文章の上手い作家、綿矢りさよりも面白い作品を書く作家はゴマンと居よう。

しかし、時代は前述の意味に置いて綿矢りさを選んだのである。我々現在の20代にとっての「村上龍」に成り得ているか、太鼓判は押せないが限りなくそれに近い作家だと思う。

大体、昔はもっと作者も有名、みたいな小説家が沢山居た筈なんだけど、最近では作品は知っているが作者がどんな奴かはわからない、というのが多い(気がする)

それは音楽界でも矢張同じ事が云える。
曲は知っているが、演奏者の素性は知らない。

残酷に、非情に残酷にバッサリ切ってしまうなら、いわゆる「無個性」なのだ。

前述の様に「いい小説だったら、いい曲だったら、いい絵だったら、作者が誰であろうが関係ない。作品単体で評価すべきであって、作品と作者のつながりは重視しなくてもよい」という様な考え方もある。

これも一理ある。が、僕はそれに賛成しない。

僕は芸術作品は作者の顔が見えてなんぼ、といった風に思っている。作品に触れた時、思わず「作者はどんな人なんだろう」、と探究したくなる様なモノの方が優れた作品だと思う。



話が脱線気味になってきたので戻そう。

詰まり、綿矢りさはそれだけ濃厚な臭いを放つ小説家なのである。勿論、容姿の問題もあるだろうが、それだけでは生き残れない事は長い歴史が証明している。

― 2004年。綿矢りさは最年少19歳で芥川賞を受賞する。作品は「蹴りたい背中」である。

皆さんこの作品を読まれただろうか? 結果論から云うと、別にそんな大層な小説ではない。高校生のあるひとときを描写したに過ぎない規模の小さな小説である。

しかし、兎に角「綿矢りさ」なのである。(なんじゃそりゃ)

前作の「インストール」とこれの2作品だけで、綿矢りさはもう綿矢りさワールドを確立させた。

その後の作品も全部読んだ訳じゃないので、詰めが甘い考察になっちゃうだろうな~と思いつつ、綿矢りさとは何なのか!? ― を僕なりに考えてみた。


その大前提として、綿矢りさはインタビュー等で核心的な部分を突かれそうになった時、「小説の主人公と私は違いますー」みたいな事を云いつつ、すいーっと
うまくかわして居るのだが、僕は正直、この人は基本的に無器用で無自覚的な人だから、そんなうまいこと自分と全然違う人間を描写出来る様な人ではない、と思って居るので、殆ど自分の事を書いちゃってるんだろうと、まぁそう思う訳です。(勿論、お話自体はフィクションでしょうがね)



と、いう訳で、綿矢りさは ―

①エロい。

― これはもうホントにそう。(笑) 2004年の芥川賞受賞は最年少女子ダブル受賞! というのも話題のひとつであり、もうひとりの金原ひとみの「蛇にピアス」という作品も話題になった。(吉高由里子主演で映画化もされた)
この「蛇にピアス」という作品、内容的にはエロい方だと思う。(ちょいエロくらいかな)

少なくとも「蹴りたい背中」よりはエロい。
....筈なのだが、「蹴りたい背中」の中で描かれるエロ描写の方が数段エロいのだ。

直接的な「蛇にピアス」に対して、「蹴りたい背中」のそれはダイレクトでは無いぶん、精神的なエロさがある。
(以下ネタバレあり)
例えば、にな川が、大好きなアイドルのオリちゃんの顔の部分だけ雑誌から切り取って、それを裸の幼女の写真の顔部分に貼り付けている、という作品を作り上げている、等といったもの。

詰まり、自分が調達出来るだけの素材で大好きな女性のヌード写真を作り上げた、というなんとも精神的にエロいエピソードである。

次はにな川が風邪をひき、主人公の女の子が見舞いに家へ訪ねるシーン。

主人公は部屋に招かれて桃を出されるのだが、にな川の唇が乾燥の為に切れており、食べにくそうに桃を食べている。傷にしみるんだね。
そこで主人公の取った行動。「やった。すごい、なめたい!」(すいません、確かこんな台詞だった筈。手元にテキストのない状態で書いてますんで 謝)

と云ってにな川の唇の傷を舌でペロッとなめる。
これもなんか昔の純文学映画みたいなエロ描写だ。(鈴木清順みたいだなと思ったよ)

女子更衣室のシーンではプールの授業の為、脱衣をするのだが、タオルの中の自分の身体を見て、自分でエロいと思う、なんていう場面もある。

ここまでくると最早、「変態」である。(確信)

蹴りたい背中」ではまだ表現が押さえられているが、「ひらいて」などになってくるともう言い訳や誤魔化しが通用しない。しかも、あるインタビューでは、「ホントはこういう作品を2作目で書きたかったんですけど、技術がなかった」と語っている綿矢りさ

技術は確かに上がっているが(何の?(笑) 正直、構想はあってもあの時点では書けなかったというのが実は本音ではなかろうか。

「ひらいて」では好きな男を嫉妬させる為に、その好きな男が惚れている女と同性愛行為におよんでしまうという暴走具合。完全に体裁を守る事を棄てたらしい。「私は変態です」と云わんばかりだ。

でも、けなしている訳ではないのであしからず。

綿矢りさは美人である。美人な女性は十中八九頭がイイ。そして、頭がイイ人ほどエロいのだ。
綿矢りさ自身も「インストール」の中で云って居る様に、エロの世界は果てしない。知性が上がれば上がる程様々な性の快感に目覚め、しまいには世の中すべてのモノがエロく観える様になってしまう。(大袈裟かも知れないけど、ホントにそうよ)
おそらく日本においては未だに「エロ=下品・下ネタ」みたいな発想が一般的な気がするが、エロは人間に付随する要素の中で切っても切り離すことの出来ない絶対条件みたいなモノであり、蔑むモノでも馬鹿にする対象でもないのだ。

...処女作には作家のすべてが詰まっているとはよく聞く話だが、綿矢りさの処女作「インストール」は、登校拒否をした女子が、ませた小学生の餓鬼と一緒に押し入れの中でエロチャットする、という話。

まだまだ未完成な感じだが、その後の綿矢作品を見てもおおよその要素は揃っている。


●日常の中の非日常的シチュエーション。
●変態の女子。(主人公)
●色々背負っている風な影のある男。(わかっている男)
●その逆にわかっていない凡人ども。(正確には常識を逸脱せずにまっとうに、というか堅気に生きている市井の人々)

●疎外感

....昔、綿矢りさはよく云っていた。「書きたいものがよくわからない」。「恋愛を描いていますけど、ひょっとすると描きたいものが恋愛では無いのかも知れません」。

うーん、成程。
しかし、客観的に観させてもらって、あなたが一番描きたいモノは「エロス」だと思います(笑)
冗談抜きで。それも「アガペー」じゃなくて「エロス」限定ね。でも、エロ目的の官能小説は駄目。なぜなら、日常の中にわざわざ非日常的空間を作り上げて、その中で乳くりあったほうがよりエロいという事を勘づいて居るから。あくまで「日常的」というのがポイント。で、どうやら綿矢りさにとってそのシチュエーションを作りやすいのが「高校生活」らしい。
よっぽど高校生時代が印象的だったのだろうか、その場を与えられると綿矢りさは水を得た魚になる。

「夢を与える」や「勝手にふるえてろ」等では少し違うシチュエーションでやろうと試みた様だが、どうにも不発だった。

本人が余り把握していない社会を書こうとしても書き方が荒くなって嘘くさくなってしまう。

かといって、いつまでも高校生を書いて居るのも作者の年齢からしてもどうかと思うが(余計なお世話)これからどうするつもりなのだろう。



②理想の男を追い求めている。

― 綿矢作品に登場する男キャラクター、特に、主人公が惚れているキャラクターは、それぞれ、性格や行動原理は違っても、なにかしら共通項がある。

僕もすべての作品を読んでは居ないので詰めが甘いのはしょうちのすけだが(笑)、顕著なのは「蹴りたい背中」のにな川、「勝手にふるえてろ」のイチ、「ひらいて」のたとえ、などである。

引きこもり気味。窓際族。しかし、実は頑固でこだわりがあり、強引なまでに積極的な部分も合わせもって居る、という。

例外として、「夢を与える」に登場する「正晃」が居る。
この男は他の綿矢作品に登場する男と違って、上記の様な定番の主人公が追っかける対象にするネクラな男でもなく、「勝手にふるえてろ」のニの様な「世の中にはこういう男も居ますが、これは私のタイプではありません」という噛ませ犬みたいな男でもない。

云わば、典型的なチャラ男である。

しかし、もう少し深く観るなら、「周りに媚びていない」という特徴が、正晃の肝となっている気がする。

これまたあるインタビューにおいて、綿矢りさは「恋愛をするなら、マジメで清潔な感じのタイプ。結婚するなら、仕事をガツガツする出世しそうなタイプがイイと思う様になった。」と云って居る。前は逆だったそうだ。確か「勝手にふるえてろ」を出した辺りのインタビューだったと記憶して居る。

正晃はチャラくてヤル気もないから出世しないだろうが、主人公の追っかける対象に選ばれたという事は、こういうタイプも何かしら綿矢りさの心をくすぐる所があるのだろう。

何度も云うが、全作品観てないので、他にも例外のタイプが居るのかも知れないが....。

― と、いう訳で、これらの要素を強引にまとめるならば、綿矢りさのタイプとなる男性像は....


●達観して居る。

●他人とのコミュニケーションが苦手である。しかしその理由は、口下手だとか、内気だからとかではなく、人間を観過ぎるので、ある種の「対人恐怖症」的なものに陥って居たり、人間を卑下して居る部分があるからであって、根本的に無器用だからではない。
寧ろ、洞察力が高いので、一対一でジックリ話してみると実に深くて魅力的。

●草食系と思いきや、いったんスイッチが入ったらガンガン主張を始めたりするドS。
(クリーミー男子とは違う。ロールキャベツ男子? (笑)

●基本、醒めているが、自分には適度に優しい。

.......と、まぁこんな具合かな?

で、書いてて思ったのが、こういう男って確かに居ると思うけど、まぁ、滅多に居ないわな(居るかな?)

アニメの世界とかには割に居そうだけども。

でも、こういう男を好む女性って今の日本には結構居そうだ。

近年、女性の肉食化が著しい。それに凹凸関係ではまるのが、上記の様な男なのかも知れない。



③芸術至上主義である。

― 詰まりは、芸術の為の芸術をやって居る。(今は少し変わったのかも知れないが、依然としてその傾向はある)

何かを描きたい、何かを訴えたい訳では特にないのである。「美しい文章が書きたい」「ハッ、とするような場面を描写したい」「完璧な文章、完璧な展開を求める」等。

綿矢りさは「芥川賞」を獲得している。
一般の人は「芥川賞」の事をどういう賞だと思って居るのだろう?

形骸化された回答としては、「将来が期待される新人作家に送られる賞」「新人作家の登竜門」「短編及び中編の小説が対象」等々。
その通りなのであろう。

しかし、僕はこう思って居る。「芥川龍之介みたいな文章を書く人がとる賞」(笑) という。
だって、「芥川賞」なんだから。名前が。

一口に「芥川龍之介」と云っても人によってイメージはバラバラである。何せ、芥川はその短い作家人生の中において、幾度となく作風を変えている。

初期は、お馴染み「羅生門」「鼻」「芋粥」など、日本や世界の古典からネタを調達し、それを芥川風に改造。より、モダンな感じに焼き直した様な手堅い作品を連発した。誤解を恐れずに云えば、パクりの天才である。
中期以降も内容にオリジナリティが増したものの、矢張元ネタが存在するものが殆どである。
「藪の中」「地獄変」「杜子春」「蜘蛛の糸」「六の宮の姫君」等。

それが、晩年、一転して作風が大きく変わる。
簡単に云うと「私小説」が格段に増える。
「保吉」などという偽名を使いながら「私小説」を展開。それと同時に、「筋の無い小説」の探究に入る。

「大導寺信輔の半生」「蜃気楼」「河童」「ある阿呆の一生」と来て、最後に到達したのが「歯車」である。

僕は芥川のファンであるが、この「歯車」が一番好きだ。僕の中で「芥川龍之介」というと「歯車」になる。晩年まで私小説や筋なし小説を否定してきた芥川が一転、それを突き詰めて死ぬ間際に到達した美しい世界である。筋の無い、しかし、何かしら意味を読み取る事も出来そうな、そして文章の美しさと云ったら天下一品である。

限りなく透明に近いブルー」も新しい「歯車」だった。「蹴りたい背中」もそういった傾向は確実にある。シュールで倒錯した日常風景。それが芥川賞に相応しい。

しかしながら、それは完璧なスタートであると共に、そこに留まる事を許さない。作家は伝えたい事を見つけていかなければならない。大地に根をはって強さを手に入れる必要がある。

現在、綿矢りさはスランプを乗り越え、吹っ切れて、そしてボンボンやらかして居る。実に頼もしい。

天才じゃなくなってもイイ。「歯車」の世界に居ると昇天してしまうからね(笑)
好きな様にやらかせばイイ訳です。



長くなったなぁ、しかし(笑)



....最後にもうひとつ。
これは「インストール」で既に顕著であるが、綿矢りさはいわゆる「腐女子」なのだ。

それも忘れてはならない要素であろう。

これからも面白そうな小説出したら中古で買って読むよ、綿矢さん。(けなしてる訳じゃなくて、僕にお金が無い、というだけです)

頑張れ、変態!(称賛の言葉よ)

シン·ゴジラ

「シン·ゴジラ」。


久方ぶりのゴジラの新作である。

監督は庵野秀明、そして樋口シンジ。


まさか、彼らがゴジラを創る日が来るとは.....


これは正直、期待半分、不安半分である。



僕は、「庵野秀明」という人の才能をとてつもなく評価している。

破格の才能の持ち主だと思う。


僕も、今でこそ偽サラリ―マンに落ち着いているが、いずれはクリエイティヴな仕事で一旗あげてやろうと画策しているモノである。


そんな時に、デカデカと立ちはだかる巨大な壁である。


僕はあんまり他人の事を「すごいなぁ!」とは思わないし、「この程度なら僕にでも....」なんて、まことに不遜な態度で居るのであるが、この「庵野秀明」という人と、あと、「松本人志」という人には一目置いている。



そりゃ、宮崎駿だの北野武だのはスゴいよ。

でもあまりに年齢が上過ぎるし、もう老いていくお爺ちゃんみたいにしか思えない。

その意味で、「庵野秀明」と「松本人志」の両名には、全盛期を過ぎたというむきはあるものの、まだオモシロイ事をしてくれるんじゃないかと思える人達であるのだ。



で、「シン·ゴジラ」である。

まさにド直球の庵野節全開の題名にまず笑う。


しかし、こちとら、ゴジラは子どもの頃からの大ファンなのである。

いくら庵野秀明の作品と云えども、容赦なく批評させてもらうつもりだ。


僕が一番好きなゴジラ映画は、「ゴジラvsビオランテ」である。

これを超えるゴジラ映画はいまのところ、ない。

あくまで僕個人の見解ですのであしからず。


この映画の素晴らしさは何といっても「美しい」所である。
こんな美しい怪獣映画もない。


映画全体の雰囲気、登場人物、物語、ゴジラのフォルム、ビオランテの造形、BGM、編集.....

すべてが文句なしである。
これ以上、何が要る?

勿論、完璧とは云わない。
ご都合主義的展開や、不可解なセリフ、キャラの破綻など、矛盾点はちらちらと見える。

しかし、そんな欠点が些細な事に思えてしまうほど、兎に角「美しい」。


技術的に特筆すべき点は、なんといっても「編集」のウマさである。

この映画は編集が上手すぎる。

いくらゴジラ映画と云えども、怪獣映画などしょせん途中で中だるみするのは免れない。

.....のだが、この映画はほとんど中だるみらしい中だるみが、ない。


様々な要素を畳み掛けるように連発し続けるような展開で最後まで引っ張るからだろう。


まぁ、要素があり過ぎるせいで、ゴジラの初心者、怪獣映画初心者にとっては「難解な映画」などと評価を受ける事もある本作。

確かに僕も子どもの頃、初見ではとてもじゃないが全貌は掴めなかったし、多くの事の意味はわからなかった。
それこそ、いい大人になってからようやっと意味を理解出来た要素もある。


しかし、だからなんだってんだ。

この映画の素晴らしさは変わらない。


僕はゴジラ映画は3作品くらいのぞいてほとんど制覇している。

しかし、残念ながらこの「vsビオランテ」を超すゴジラ映画には出会えていない。


金子監督による平成のガメラはある意味で凄まじい出来だったが、こんな事云うと元も子もないが、僕はガメラよりゴジラのほうが好きである(笑)


でも、それでも「ガメラ3 イリス覚醒」はなかなかだったと思う。

しかし、僕はゴジラの新たなる傑作を期待し続けているのである。

あ、云っておきますが、ハリウッドのヤツは論外ですんでね。


「何、あれ」。


しか、感想が浮かばなかった。

頼むよ、ホント。2014もダメダメ。

矢張、ゴジラは日本人にしか創れないんだな、と確信した瞬間でした。

「だから、ゴジラを巨大恐竜にするのはいい加減にやめなさい!!」という。


ゴジラはね、圧倒的な恐怖の対象でもあるんだけど、きちんと感情のある生物なんだ。

人間みたいな擬人化したゴジラを描け、とは云わない。それはまたそれでダメである。

(昭和のゴジラは吹き出し付きで話したりした。あれを見て終わったと思った)


しかし、ゴジラのもっている哀愁、切なさ、怒り、憂い.....そういうモノを映像と良質なシナリオで嫌味なく表現してもらいたい。


それこそが、日本的なゴジラだし、日本人にしか創れないゴジラなのだから。



頼むからゴジラをただの恐竜や、ただのパニックの対象としてだけ描くのはやめてほしい。



そもそも、覚えていますか?

ゴジラは水爆実験から生まれた怪獣。

原爆や原子力などにNOを訴えるようなメッセ―ジを背負わされた怪獣だという事を。



そこをピックアップしないと、ゴジラの意義は無いのですよ。

マイケルジャクソン

僕が本格的に音楽に目覚めたのは高校3年になってからだった。

他と比べると遅いかも知れない。

それまでは世間で流れている流行り歌すら把握していなかった程だ。



それが今となってはPC内にはざっと4万曲ほど入っているくらいになってるのだから、人間どうなるか分からない。


僕を本格的に音楽の世界に誘ってくれたのは他でもない、「マイケルジャクソン」である。


とはいっても、いきなりマイケルの曲を聴いたりした訳ではなかった。


マイケルは丁度その時、複数の面倒な裁判に巻き込まれている時期であった。


後から考えると、マイケルはハメられていたのだ。

マイケルの存在をよく思わない連中から目をつけられて自己破産に追い込まれようとしていたのだ。


しかし、天はマイケルの味方をした。

当然である。マイケルは有らぬ罪をかぶせられていただけなのだから。


それはいいとして。


僕がマイケルをはじめて目撃したのはTVで、マイケルが裁判に向かうという中継が映し出されていた時であった。


黒くて大きなサングラス。肩幅の広い黒ス―ツ。
日傘をさし、かなり細身に見えた。
頬は信じられない程こけている。
肌は真っ白、白人なのか?
でも、見出しは「黒人歌手」となっている。
そして無精髭も生やしていてズボラな印象。

そうして、これから自分が裁かれる側の裁判に出廷しようというのに、ファンからの声援に答えて、彼は自分の乗ってきた車の上に飛び乗り、長くて細い手を振ってアピ―ルしていた。



正直、マイケルの事をなんにも知らなかった僕としては、「なんて不謹慎な野郎だ」という感想をもった。


多分、そうとうイカれたヤツに違いない、とも思った。


しかし、ここで重要なのは、僕は(自分もそういう所があるからか知らないが)イカれたヤツに興味をもつ、という所があった。


僕はマイケルに激しく興味をもった。


そうして、どうやらミュ―ジシャンと云うではないか。
では、アルバムみたいなモノがあるのだろう。


僕はマイケルジャクソンという男がどんな音楽をやっているのか気になった。


こんな事は僕にとって初めてだった。

なんせ、それまでろくに邦楽さえ聴いていなかったのだから。

それなのに、いきなり洋楽。それもジャンル的には黒人のR&Bに手を出そうなどとよく思ったモノだ。


今考えても、当時の自分の思考回路が理解出来ない。

考え方が飛躍し過ぎている。

運命だったのだろう。

恐らく、この一件がなければ、僕は今もそんな真剣に音楽など聴いているような人間ではなかっただろう。



そうして生まれて初めてCDというモノを買った。

マイケルのベスト版であった。

正式に云うと、アルバム「ヒストリ―」のDISC1だけが独立している一枚組のベストアルバムだ。


そして、一曲目は「ビリ―ジ―ン」。

そのイントロを聴いた瞬間!



僕の人生は確実に今までのモノとは変わっていった。

大阪のサ―ビス精神

大阪人特有のサ―ビス精神というヤツだろうか。


大阪は母方の実家があって、子どもの頃からよく行っていたが、今現在、大人になって住んで居る。



大阪は色々オモシロイ。

まぁ、どこの地域にも特有の面白さというモノはあるのだろうが。


やっぱり大阪は商売の街である。

「よっしゃ―きれいなおねいちゃんやからまけとこう!」なんてノリは日常茶飯事である。
(まぁ、僕は不細工な男ではあるが(笑))



例えば、自動販売機。


これも、消費税のせいで、一本が140円~160円というちょっと前では考えられない程高くなっている。


しかし、大阪の自販機は流石だ。


街を歩いていると、よく「100円自販機」を見かける。

それどころか、「50円自販機」すら、ある。

手作りのシ―ルみたいなので、50円、と値段の所にベタッと値札が貼られていたり、50円と云いながら、よく見ると中には70円とか80円とか微妙な値段の商品も混ざっている。

かと思いきや、10円とかの商品も混ざっていたりする(笑)



この何とも言えないサ―ビス精神と雑さこそが「大阪」である。

僕はそんな大阪がとっても大好きだ。



玉出」(たまで)というス―パーがある。

多分、大阪にしかない....兵庫にもあるかな?


関西圏以外にはどれくらいの認知度があるのかはよく分からないが、ある。


「破格の安さ」を売りにしているス―パーである。


外装が兎に角、「派手」だ。


多分、「玉出」という名前からしても、何も知らずにはじめて見た人は「パチンコ屋?」と思う事だろう。


それぐらい、外装がギンギラギンである。

なぜ、あそこまでする必要があるのか、未だに謎である。
確かに「破格の安さ」を売りにしているだけあって、店の商品は平均してとんでもなく安い。


そうなるとおさえる所はおさえたほうがイイと思うのだが、外装はギンギラギンである(笑)


この摩訶不思議さが「大阪」である。


かといって、すべてが他と比べて安い訳ではない。

カップメンやお菓子類などは、100均のほうが安いモノもある。

僕は弁当をよく買うが、それに限っては本当に安い。

もともとが380円くらいである。

おそらくコンビニで430円くらいする弁当だ。

夜7時を過ぎると、値引きシ―ルが貼られ、「100円引き」になる。

夜8時を過ぎると「半額」になる。

詰まり、140円くらいになる。


中身は、コンビニで430円くらいする弁当とほぼ同じ内容である。


店に入るとそこかしこにテ―プレコ―ダ―の声が大音量で響きわたっていて、「いらっしゃいませ、いらっしゃいませ」と何回、いらっしゃいませを云ったら気がすむのかという程、いらっしゃいませを聞かされる事になる(笑)


まったく、オモシロイ所だ。



これからも色々、大阪を探求していきたい。